☆ アンサンブル ☆ ~ コロナ禍に想う

 

思いがけないコロナウィルスの蔓延が、音楽家の表現の場を閉鎖した。

営利的な要素を除外するならば、音楽家の営みは、

・聴くこと

・奏でること

・奏で合うこと

の3つに分類できるが、このうちの「奏で合うこと」が許されなくなった。

しかし、奪われたのは、本当にその一つだけなのだろうか・・・。

聴くこと、録音技術の発達によって、様々な音楽媒体によって引き続き可能となっているが、聴衆が求めているのは、そのことだけではない。そこに欠落しているのは、演奏者と聴衆、もしくは聴衆同士の空間共有である。いかに、8Kの高精細画像と高音質オーディオが当たり前となっていても、音空間の相互共有に対する欲求は失われていない。音楽を聴くことと、聴衆の魂を揺さぶることとは同義ではない。さらに、そこには、同一の時間を共有することも含まれている。

奏でること、についても似たようなことが言える。

今回、オーケストラは合同練習の場を奪われた結果、私自身は、これ幸い、とヴァイオリンソナタに取り組むことにした。ピアノ伴奏を頭の中で奏でつつ、ヴァイオリンを奏でることは、はじめは楽しかった。コレルリ、バッハ、モーツアルト、ベートーヴェン、ブラームス、フランクなどなど、普段あまり取り組むことができていなかった曲との対話は、心躍る日々だった。

しかし、何か月もすると、次第に物足りなくなってきたのである。というより、じわじわと孤独に取り囲まれるようになった。

それと同時に、いったい全体、自分自身にとって、奏でることというのは、いかなることなのか、という疑問が渦巻き始めた。「お前は、誰かに聞いて欲しいのか?」という問いに対しては、「いや、違う。おそらく、誰かと音楽を共有したいのだ。」という答えに気づいた。「では、バッハの無伴奏曲は誰と共有するのか?」という答えに対しては、「もしかしたら、神や宇宙空間との共有なのかもしれない。それは、あまりに遠い・・・」と呟かざるを得なかった

ベートーヴェンを弾くとき、頭の中ではピアノの伴奏が鳴っている。しかし、それは、私自身の解釈による音楽でしかない。それは、果たして再現芸術と言えるのだろうか。

すると、新たな欲求が生じた。弦楽四重奏曲の譜面を取り寄せ、それに取り組んでみよう、と古典派、ロマン派、印象派・・新たな取組は、非常に魅力的に思えた。しかし、それも結局のところ、自分自身の解釈による音楽に過ぎず、閉じられていることに変わりはない。

音楽というものが、私たちを引き付け、結び合わせるものであることは、おそらく太古の昔から変わってはいない。あたかも独立した芸術作品として存在するように見える音楽作品も、それに耳を澄ます者にとってみれば、その作品から生まれ出る音空間を、何者かと共有したいという秘められた欲求に突き動かされているはずであって、演奏者も同じである。

音楽愛好家は、今回の騒動が長引くにつれ、「一体、自分や聴衆は、音楽に何を求めていたのか」という自問自答をする毎日が多くなったはずである。そして、結局のところ「奏で合うこと」が音楽の本質なのかもしれない、と苦しいほどに気付き始めている。

 

今は、その準備をしていきたい、と考えている。(2020.10.21 iwabuchi)