☆ 2.「聴く」ということ、「演奏する」ということ ☆

 電車の中で譜読みをする方法(1.譜読み、を参照)を試して以来、どんな楽曲を聴く際にも、ついつい、演奏する立場で聴いてしまう癖がついてしまい、 その癖を振り払うのに苦労し、演奏者の立場を捨ててしまおうかと、迷った時期もあった。音楽との関わりを通じて、自分が現在何をしているのか、 何を求めているのかが解らなくなるような、そんな危険な時期だった。

 私は、音楽を聴くとき、何に耳を澄ましているだろう。
 同様に、音楽を演奏するとき、何を伝えようとしているだろう。
 これらは、音楽に対する根源的な問いである。

 ある詩人が、「ことば以前にあるもの」という表現をしていた。詩というものが表現しようとしているものは、結局のところ、ことば以前にあるものである、と。 音楽も同様のことが言えるだろう。すなわち、音楽というものが表現しようとしているものは、音符以前にあるものである、と。
 その一方で、どのように表現するかによって、音符以前にあるものを伝えられるかが大きく左右されることも事実であり、そのためには十分な演奏技術が必要である。 アマチュアの演奏の場合も、プロの演奏の場合も、それは同様である。
 確かに、縦の線がぴったり合って、弦楽の響きと管楽の響きのバランスがよい演奏は、聴いていても気持ちがよいし、演奏している側も気持ちがよいだろう。 ところが、単にそれだけだな、という演奏では、聴いた側にも、演奏した側にも、心に何も刻まれない。
 ひと昔前は、「楽譜に忠実であるべきだ」、という言葉が呪文のように唱えられ、コモディティ化した均質な演奏ばかりが溢れていた時期があった。 その言葉の本来の意味は、「楽譜に込められた作曲者の意図を尊重すべきだ」というべきはずだったものが、単に「書かれている通り演奏すべきだ」という 呪文になってしまったのである。
 演奏者は、しっかりした演奏技術に対して、何かを足し、場合によっては、何かを引かなければならない。オーケストラの場合には、演奏者全員が、 それを明示的にあるいは暗黙のうちに共有しなければならない。その意味で、これからどのような演奏に向けて練習を重ねるのか、 まず始めに指揮者がオーケストラ団員に語りかけるという行為は、非常に意味があるのではないか、と個人的には思っている。
 50人から、場合によっては100人にもなるオーケストラの構成員の全てが、同一の方向を向き、何かを共有するというのはどだい不可能、なのだろうか。 それ以前に、正確な演奏以外に共有すべき何かが有り得るのか、と問う方も居るかもしれない。そういう人には、空を悠然と渡ってゆく白い雲を見上げて、 どのように感じるかと逆に問いたい。その雲を眺めた時に生まれる、ある種の憧れに満ちた気持ちを共有することは不可能ではない、と私は思うのである。 「聴く」ということも、「演奏する」ということも、同じく「音符以前にあるもの」を感じることである。自分は、 それを様々な世界で共有するために音楽と関わっているのだ、ということを、置き忘れないようにしたい。
(2014.11.30 iwabuchi)