☆ 6.アマチュアオーケストラの私的社会学 ☆

 会社などの組織と同様、アマチュアオーケストも、小さいながら、ひとつの社会的組織である。 そこには、さまざまな人々が属し、さまざまな関係性がみられる。
 プロのオーケストラとは異なり、アマオケの団員は、普段、音楽とは無関係の生活を送っている。 経営者であったり、会社員であったり、主婦や学生であったり、実にさまざまな職業に就いて生計を立てつつ、 多くは、土曜や日曜などの限られた数時間に集まり、半年間に及ぶ練習に取り組む。
 故芥川也寸志氏は、「愛する、愛してやまぬ、これこそアマチュアの心」、 「ただひたすら愛することのできる人たち、それが素晴らしくないはずない」、そして、 「アマチュアこそ、音楽の王道である」と言っていたそうであるが、この言葉は、 音楽人にとっての理想郷として捉えていたことを示すものといえよう。
 ところが、現実には、さまざまな要因によって理想郷とはほど遠くなってしまう場合がある。 組織運営上の問題点も多く生じるうえ、どんな組織でもそうだが、意見の食い違いや人間関係のこじれなどが起きるのである。
 まず、金銭的な運営基盤の問題がある。
 バブル経済が華やいでいた頃は、人々は余暇を楽しみ、芸術に対しても興味とお金を注いでいた。 加えて、アマオケの拠点がある地方自治体は、文化水準の向上に努め、アマオケに補助金を支出して運営を援助していた。 しかし、経済が低迷している現在は、人々の芸術に対する関心が低下して、演奏会収入が減少し、 自治体も厳しい財政状況から補助を縮小・廃止した結果、アマオケの経済基盤は極めて脆弱になっているのが現状である。
 次に、団員の確保問題がある。
 アマオケは30~20年前ぐらいに続々と各地に誕生した。その頃は、まだ人口が増加していたし、団員が確保できなくても、 経済的な支援を受けていたため問題も小さかった。しかし、現在は、団員の十分な確保ができないことは、 さまざまな面で組織運営基盤を揺るがしている。すなわち、団員が少なければ経常的な運営収入である団費が減少し、 不足を埋めるためのエキストラ支出が重荷となっている。また、少子化となった現在では、後継者も減少している。 乱立しすぎたアマオケは団員獲得競争にさらされ、組織を維持すること自体、難しくなってきている。 本来は、統合されてしかるべきであるが、自主的組織であるので、統合に対するインセンティヴはないに等しい。
 最後に、やっかいな人間関係のこじれが生じることについて。
 よく言われるのは、弦セクションと管セクションの軋轢である。弦セクションは慢性的な人材不足に陥っている一方、 管セクションは人材が余りがちである。オーケストラである以上は弦セクションが「メイン」なのであるが、 団の発言権からいえば管の方が上となっている例が多い。これは選曲の際に表面化するが、詳しくはここでは述べない。
 次に、団員間の意見の食い違いや、人間関係のやっかいなこじれの発生。
 アマオケは自治組織であるので、運営や音楽解釈などに関する意見の食い違いが生じるのは当然であり、 古代ギリシャのような民主的議論の積み重ねによって解決するのが基本である。 したがって、団員個々人が寛大な精神を持って議論に加われば、建設的な解決が図られる一方、団員個々人が、 自分の意見を押し通すことに固執すれば、後述する人間関係のこじれに発展する場合もある。
 やっかいなのは、アマオケが、さまざまな人間の集合体であることから生じる人間的軋轢の発生である。たとえば、
  ① 団の運営に対する無関心、非協力的態度。
  ② 古参団員による「伝統?」の押しつけ。新陳代謝の不足。
  ③ 練習参加率の非常に低い団員が、それまでの練習で積み上げてきたことに対して、さまざまな注文をつける。
  ④ 他人の演奏などに対する揶揄、どう見てもアドヴァイスとは思えないような、単なる批判・批評。
 アマオケの団員は、演奏技術レベルもさまざまで、仕事の多忙さによる練習参加率の高低差も激しい。 そのうえで、団員相互が、他の団員の立場に立って、己がなし得る最大限の努力をして取り組むことをわきまえていれば、 上記のような軋轢は減らすことができる。
 加えて、どんな社会でもそうであるが、コミュニケーションの広さと深さが不可欠なのであろう。 芥川也寸志の言葉は、決して実現不可能なユートピアではない、と信じたい。

(2015. 7.14 iwabuchi)