☆ 7.アマチュアオーケストラと指揮者 ☆

 アマチュアオーケストラ、と一口にいっても、さまざまな場合がある。プロのオーケストラと比べても遜色ない演奏技術力を持つ団体もあれば、 多くの市民オーケストラのように、演奏初心者を多く含む場合もある。今回は、後者の場合を考える。
 この場合、1回の公演について約半年間の練習を行うことが通例であるが、これを指導する指揮者はどのような姿勢で臨むのだろうか。
 2つの場合に分けて考えてみよう。
 1つ目は、自分が求める解釈・水準を徹底的に追及する場合。
 場合によっては、オーケストラの有する技量を大きく超える演奏水準を要求することが考えられる。初心者を多く含むオーケストラは、 必死でついていこうとするかもしれないが、指揮者が求める水準に達する可能性はかなり低い。結果として、両者ともに疲弊し、後味の悪い公演結果になる。
 2つ目は、オーケストラが現在有している技量を少し超えた水準を追及する場合。
 通常は、このスタイルとなると思われる。問題は、「少し」というのが「何を、どの程度まで」を意味するのかである。
 アマオケの団員から見て、よく聞かれるのは、細部を磨き上げることにこだわる指揮者に対する不満である。つまり、練習指導の際、頻繁に演奏を止め、 細部を磨き上げるべく、かつ個々のパートごとに指導を加えていくことに終始し、場合によっては、 本番前のリハーサル時でさえ曲全体の流れに対する配慮をせずに本番に臨み、曲全体の流れをオケに体験させることなく演奏に臨んでしまう、というもの。
 多くの場合、演奏は破綻寸前の状態に陥る。団員からすれば、アマオケの本源的な希望である「演奏する喜び」というものを実感できぬままに終わってしまうため、 不満として残ることになる。聴衆にとっても、演奏に対する喜びを感じていないオケが奏でる音など耳障りだろう。 つまり、団員からすれば、この場合の「何を」というのは、テクニカルな演奏技術だけであるかのごとく見えてしまうのである。
 誤解を恐れずに敢えて言うとすれば、指揮者は、確かに演奏技術に関する指導者でもあるが、同時に、その曲の演奏を、ある一定の解釈へと統率し、 導くべき役割を有しているはずであって、むしろ、それが第一義であると思われる。別の場所でも書いたが、半年間の指導を行う前段で、 自分がこれからどのように曲を作り上げていこうとしているのかを、指揮者が(あるいはオケの側も)語る(あるいは語り合う)ことは、 指揮者とオケ相互にとって重要なことであると思う。
 個人的見解であるが、音楽とは、「時間(あるいはリズム)」という運動エネルギーと、「音」という粒子の相互作用によって生まれる美しい「流れ」である。 細部にばかりこだわると、運動エネルギーは失われ、粒子はバラバラとなり、音楽ではなくなってしまう。
 もちろん、オケの側にも責任はある。普段の練習努力が全くなく集合練習に臨むような低い意識では、いくら指揮者が頑張っても意味がなく、 頑張る気も失せる。ただし、アマオケの団員は、学生部活動の部員ではなく、普段は一日中忙しく別の仕事に励む人々であって、 練習時間も限定されることもまた事実である。どこかで折り合いをつけるしかない。また、個人練習においても集合練習においても、合理的な練習方法を探る必要がある。
何はともあれ、指揮者とオケ団員の間においても十分なコミュニケーションが必要ということであろう。
(2015.11.29 iwabuchi)