シューマン:交響曲第3番 変ホ長調 作品97「ライン」

 一見して、浮き浮きとした気分に溢れた楽章が多い。 しかし、なぜか聞き手にとって疲れを感じさせる雰囲気であるのは、それが、よどみなく途切れなく続いているからである。 あまりにも「ハイな気分」が続きすぎている。これでもか、これでもか、と緊張を強いるかのような流れが果てしなく続いている。 シューマンは、シューベルトの大ハ長調交響曲を発見し、巨人ベートーヴェンの次に来る交響曲のイメージを掴んだらしいが、 その大ハ長調交響曲を「天国的な長さ」と評している。 それに比べてシューマンの交響曲は、聞き手の襟首を掴んで離さぬような強引さを含んだ長さであるような気さえする。 シューマンの管弦楽法は、グスタフマーラーなどによって「下手くそ」と断じられ、しばしば改変を加えられた。 これは、音を重ねすぎたりしている部分が多く、旋律がはっきりしない、という見方によるものが多い。 この、くすんだ、ぼやけたような感触を打ち消すかのように、これでもかこれでもかと緊張感を持続しようとする「あがき」にも似た推進力が、 そうした聞き手の疲れを引き起こすのではないか、と思われる。
 それらの点から、演奏する側としては、どこまで響きを整理すべきなのか、どこは整理すべきでないのかが極めて重要な意味を持つことになる。 さすがに現在では、マーラー版などを使うことは少なくなり、原典に忠実な版を使い、明示的に響きを整理するわけではないので、 先述したようなシューマン交響曲のくすんだ表情は残されたままとなるが、 それだからこそ、シューマンの正しい意図を楽譜から読み取ることがより重要なのである。
 一見して、精神的な不安定さを感じさせないように見える曲想が続いているように見えるが、それは大きな誤りである。 むしろこれは、「躁」の状態の異常な継続である。あるいは、異常な興奮の尋常ならざる継続である。 さらに言えば、溺れかかった人間が必死で浮き上がろうとする「あがき」である。 したがって、明るく開放的な演奏など実は不可能である、ということを理解しておく必要がある。おそらく第3楽章とて例外ではない。
 色彩や音を伴って、あらゆる情報が次々と押し寄せ、不安を煽り立てるような日々の中に暮らす現代人にとって、 この曲は、よき理解者でありえるのか、それとも、神経を逆なでし、忌避すべき魔物の囁きなのか―――それは未だに分からない。(20130428 Iwabuchi)