ショパン:ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 作品11
この曲は、若き日のショパンが相次いで作曲した2つのピアノ協奏曲のひとつであり、苦悩と希望に引き裂かれた青春の歌である。 私は、これほどに生々しい青春の歌を知らない。ショパンに対しては、音楽史上、様々な見方があるが、 ロマンチックな曲想ばかりがクローズアップされるばかりで、その寄与は過小評価されていると思われる。 彼の音楽は、実は、非常に厳しい精神的な側面を有している。
ショパンの作品には、常に、形式と自由な発想との相克が見受けられる。 マズルカ、ポロネーズ、ノクターン、ピアノソナタ・・・。 その性格は、既にこの協奏曲に顕著であり、これ以降の曲には滅多に見られない、特に強い様式性が感じ取れる。 亡命者としての彼の心情と、様式からの開放を志向する性格とを重ね合わせて聞き込むと、非常に胸苦しい想いがこみ上げてくる。 これが作曲された当時、ワルシャワにおいては、既にポーランド独立のための蜂起の準備が進んでいた。 ショパン自身も、これを敏感に感じ取り、己にできることが何であるのかについて思いを巡らせていたと考えられる。
 この曲を聴くと、若いショパンの挑戦的な心情を感じる。様式の中にはめ込むことのできぬ自由への熱情が、ほとばしり、溢れ出している。 同時に、ロマンティシズムの中に漂うだけの演奏からは、最も遠い位置に、この曲は在るのだと言える。
 当時の音楽状況を俯瞰して見ると、若い音楽家にとって、管弦楽付きの楽曲を作曲または演奏することが、いわゆる登竜門であった。 その背景には、市民社会の発達によって、貴族のサロンなどが中心であった時代から、 多くの聴衆を集めたコンサートが中心となっていたことが挙げられる。 ショパンもその例に漏れなかったであろうし、周りもそれを強く勧めたことでもあったろう。 もっとも、パリ以降のショパンの音楽活動がサロンを中心になされていたことは、彼の音楽の性格と密接な関連があると考えられる。
 ショパンは管弦楽を伴う作品を、作曲家としてのごく初期に、しかも、ほんのわずかしか作曲していない。 その中で、ピアノ協奏曲は2曲ある。最初に作曲されたのは「第2番」と呼ばれるもので、この第1番は、すぐそれに続いて作曲された。 最初に作曲された第2番に比べると、この第1番の方が規模も大きく、構成が堅固な感を受けるが、 これは、もしかしたら別の理由によるものである可能性がある。すなわち、作曲者とは異なる人物の介在(指導か)が考えられているのである。 そもそも、オーケストレーションを完成させたのは他人であるという説もあるほどである。 私個人の感想としても、ほぼ同時期に作曲されたと言ってよいこの2曲の間には、 管弦楽伴奏部分において越えられぬ溝があるような気がしてならない。
 一般的に、第2番に比べて完成度が高いとされる向きが強いが、それは、 以上のような理由や、様式化された印象から来ているに過ぎないと思われる。 現に、最新の研究結果に基づき、ショパン自身が意図したであろう状態を再現するべく作成された版 (ナショナルエディションまたはエキエル版と呼ばれる)の演奏を聴くと、かなり印象が異なっており、 堅固さよりも、むしろ溌剌として、独創性がより際立っている感じを受けた。 今回の演奏会では、一般的なパデレフスキー版を基本としたものを使用するが、管弦楽部分に惑わされず、 ピアノ独奏部を中心に耳を澄ませていると、この曲の本当の姿を予感することができる。
 いずれにせよ、仮に、管弦楽の部分を他人が書いたとしても、それを書いた者は、 ショパンの音楽を様式の中にはめ込むことに失敗したことになる。 ショパンの音楽は、はるかに遠くを見ていた。それを狭い常識の中に押し込めることは誰にもできなかったのである。
 ピアノ協奏曲の演奏会を最後として、彼は永久にポーランドから立ち去ることになる。 もちろん、彼自身も、虚弱な己の体質と、亡命者としての運命の両面から、これを予感していたに違いない。  

(20101116 Iwabuchi)