チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調 作品74(「悲愴」)

 もう何百回となく聴いている曲であるが、この曲に関して何かを語ろうとするとき、身体が震えるような怖れに襲われ、 非常な躊躇いが押し寄せる。これは絶望の曲なのか、それとも、この曲を聴いた後にあふれ出る熱い涙とともに浄化される、 限りなく愛おしい何ものかを表現した曲なのか、いまだに私には整理がつかない。
 ただ私は、文明社会に引き裂かれた人間性というものを暗示している、と考えている。

 最終楽章の主旋律は、スコアを一見しただけではわからない。一般的には、対向配置におけるステレオ効果を狙ったもの とされているが、むしろ演奏者が旋律を過度に意識し、大袈裟に「拵えて」しまわないようにするためと思われる。
 つまり、この最終楽章で表現されようとした「絶望」「死」といったものが、容易に美化されることを嫌ったのではないか、 と思われる。旋律線が明らかな譜面を演奏者に提示してしまえば、「美しく、レガートに」演奏されてしまう可能性が大きい。 しかし、そこで表現されようとしているものは、決して美しくもなく、感動的でもなく、ただ、ひたすらに暗鬱で逃れられぬ 底深い泥沼なようなものなのである。それを、自己陶酔的に、甘美に演奏されてしまうことは、作曲者にとって承服しがたい 欺瞞だったと考えられる。これは、一般受けした第5交響曲から得た反省でもある。
 また、あくまで私見として受け取ってほしいが、ロシア的で大げさな感情表現の多いチャイコフスキーではあるが、 モーツアルトの音楽に羨望の眼差しを注いでいた彼は、本当は別の形の表現を欲していたのではないか。この最終楽章は、 そうした思いに対する、彼なりの結論であったのかもしれない。そして、ひとりの人間としての彼自身の「生」も、 別の形で在りたかったのではないか。分厚い音楽を身に纏っていた作曲者とは別の、生身で繊細な彼にとっては、それが、 いかに足掻いても結局不可能だったということが、ある種の悲劇だった、と思うのである。

 そして、この曲を聴きつつ、現代という時を概観するとき、人々の心の奥底で、「絶望」というものが忌避されているのを感じざるを得ない。
 現代の人々が、絶望や、慟哭、といったものに、ある種の「具体的理由」を見いだせないことが、その大きな要因であるように思われる。
 しかしなぜ、そこに「具体的理由」が必要でなければならないのか。
 それらは、ごく自然で身近な感情であるはずなのに、
 あたかも、特筆されるべき非日常的な何かでなければならない、と規定したがる現代人に、 私は疑問を投げかけたい。
 ニーチェ以来、神は死んだ、とされているが、生という原罪は、現代においても存在しているのではないか。この曲は、 今から125年前の1893年に脱稿しているが、その後に現れたどの曲よりも現代的である。 (ちなみに、第4楽章19小節目の和音の動きは、武満徹の楽曲を先取りしている。) そしてまた、現代において、この曲は「聴いてはならない曲」であるかもしれないが、同時にまた、「真正面から聴くべき曲」 でもある、と思う。
 とかく、作曲者本人の当時の境遇などと結び付けられて論じられことの多い曲であるが、遥か彼方に予想される人類の行方を 見通した問題作である、と私は考えているのである。

(20180730 IWABUCHI)