ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 「新世界から」

 大衆受けする、非常に人気の高い曲である。しかし、厳しい音楽である。
 これまで、この曲を積極的に聴くということが殆どなかったが、改めて、それこそ真剣に聴いてみて、そう感じた。演奏する側としても、厳しいだろう、とも。
 クラシック音楽を初めて積極的に聞き始めたのは、高校生の頃だったが、あまりに有名なこの曲を、快く感じることはなかった。 若かった私には、ある種、単にメロディアスで、抑揚があり、迫力もあって「かっこいい」、音楽として完璧な機能性を持つ―――だけのように思え、 旋律が余りに大げさにうねる様子に嫌悪感を覚えたからである。
 およそ30年を経て、改めて聞いてみると、深い望郷の念に満ち満ち、厳しく心に刻まれてゆく音楽であることに驚きを禁じ得なかった。 湧き立つような民族的リズム、ドローンで上空から俯瞰したような大地や都市の風貌、その中で雄々しく生を全うする人間たちの活気。 現在まさに作られようとしている歴史や世界の先端に居るという高揚感と、新大陸独特の活気への共感。 ある種の犠牲を乗り越えた、新天地、という魅力的な響き。一方、それとは逆の穏やかさ、 営々と積み重ねられてきた歴史に裏打ちされた懐の深さと安心感を、故郷の空気と共にふと思い出すひと時。 この曲は、そのような想いの中を揺れ動いている。奥ゆかしい微かな情感の中に育ってきた我々にとっては、 あまりに大仰に思える表現が次々に押し寄せ、恥ずかしささえ覚えることがある。
 試みに、数十種類ほどの録音を聴き比べてみると、それぞれ全く違う印象を受けるほどに、異なる演奏が存在していた。 中には、それこそ「お手々つないで」的な第1楽章や、演歌の節回ししか思い浮かばないような第2楽章やら、 大売出しやパチンコ屋の喧騒とか、軍隊行進などしか思い浮かばないような第3、4楽章、 平板な英雄譚にしか思えない大げさな叙事詩のような語り口、など、陳腐で聞くに堪えないものもあった。
演奏の質の振幅が大きい。素材の素晴らしさに胡坐をかき、何も考えずとも、ただひたすら演奏するだけで自動的に聴衆を満足させることができる、 という心理がどこかに働いていないか。聴衆が日本人なら尚のこと、この曲の旋律が四七抜き音階に類似していることは言うまでもなく、 心に響かぬはずはない、などと・・・。
 加えて、余りに人々に知られ過ぎている曲であることが、聴衆を落胆させてしまう危険を更に増幅する。 無難かつ手堅く演奏するという意味を履き違えれば、眠りへの道へと聴衆を誘い、奇をてらって万が一足を踏み外そうものなら、 そのときの聴衆の落胆度合いは、期待の大きさに比例して、あらゆる曲の中で最も大きなものとなろう。 アマチュアオーケストラでも演奏されることが多いようだが、単なる人寄せを目的とした安易な取り組みは、 信用を失墜させるかもしれない大きな危険をはらんでいることを認識し、気を引き締めてかかる必要がある。
 そもそも、ドヴォルザークは、音楽史の上で特段重要視される存在ではない。しかし、行き詰まりかけたロマン派の音楽に、 新鮮なリズムや音階、馥郁たる香りを吹き込んだ。民族性に寄りかかったポップス作曲家であった、とも言えるかもしれない彼を、 偉大なる平凡と呼ぶとしても、それは、職人的で高度な技術に対する畏敬の念をこめた賛辞でもある。 だから、無意識にであっても、この曲を単なる力強く美しい旋律の「寄せ集め」として演奏してしまったら、 その場に居た聴衆は、作曲者に代わってブーイングをする権利がある。
(20150712 IWABUCHI)