ハイドン:弦楽四重奏曲

 

 コロナ渦で、オーケストラ活動への参加が思うようにいかない中、初めて取り組んだもののひとつに、ハイドンの弦楽四重奏曲がある。

 高校生のころから、ずっとクラシック音楽を聴き、成人になって演奏にも取り組むようになってから、ハイドンという作曲家に関わることは、全くなかった、と言ってよい。

 私の中で、ハイドンは、単なる音楽製造職人であって、モーツアルトやベートーヴェンに作曲技術を提供した人物であるという、それだけの存在でしかなかったし、気まぐれで耳にしても、私の中から生まれ出てくるのは「欠伸」だけだった。

 ところが、ある演奏が、その見方を一変させた。

 Attacca Quartet(アタッカ・カルテット)による、ハイドンの数々の弦楽四重奏曲の演奏である。(現在のAttacca Quartetは、メンバーの一部が交代しており、当時とは異なる。)

 最初は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲作品18-1について、好みの演奏を探索していた中に、Attacca Quartetの演奏があり、非常に心動かされたため、彼らの演奏を探索し始めたところ、ハイドンの演奏シリーズが見つかり、聴いてみたのが始まりである。彼らのエネルギッシュできびきびとした演奏(「これはハイドンではない!」と言う方も居るのではないか・・・)を聴いて以来、ハイドンに対する私の見方が劇的に変化してしまった。コロナ渦で、弦楽四重奏曲を、片っ端から弾き散らしていたが、最初、そこにはハイドンは含まれていなかった。が、今では、取り組んでいる時間のほとんどをハイドン作品に費やしている有様である。

 ハイドンに対して、以前の私と同様に、眠気しか感じない人は、非常に多いと思われる。まして、弦楽四重奏ともなると、その作品形態からして、人気のあるジャンルではない。

 加えて、ハイドン作品の解説にやたら「ユーモア」なる言葉を、意味も理解せぬままに並べたり、ニックネーム付きの作品ばかりを紹介したり、などと、ハイドン作品とまともに向き合っているとは思えぬ解釈をまき散らされていては、我々のような一般人は、そもそも、聴き込む前に食う気が失せてしまうというものだ。

 今回、Attacca Quartetによる演奏を聴いてみると、初期の作品群は、瑞々しさに溢れていることに気付かされた。そして、Mozart がハイドンセットカルテットを書くきっかけとなった作品33の6曲。Mozartが、これを追いかけたのが、今更ながらに頷ける。それどころか、後のmozartのお馴染みの作品に現れる旋律の欠片まで見出せる。

 それ以降の作品群における、様々な試み(中には失敗と思えるものも・・・)、そしてMozartから逆輸入したような調性の自然な「揺らぎ」。

 ハイドンは、確かに、ある意味でのヴィルトゥージティを有する作曲家で、職人芸を磨き続けた人間だと思われる。だからだろうか、ハイドンには、繊細さを発見することはできても、か弱さや儚さを見出すのは困難である。というより、それはパトロンの求めに応じて作曲する立場では、許されないことであったろう。それに比べて、Mozartは、そうした禁じ手を敢えて(あるいは、絶望的に)採用した。それは、市民社会がまだ萌芽期にあった当時にあっては、非常に危うい代物であったし、作曲者自身を擦り減らすことでしか贖えぬものであったろう。後のベートーヴェンは、その点、成熟しつつあった市民社会の中で、遥かに大きな自由度を手にすることが可能になった。

 ベートーヴェンが最初に弦楽四重奏曲を手掛けた丁度同じ頃、ハイドンが弦楽四重奏曲の作曲の筆を折っているのは、非常に興味深い。ブラームスがベートーヴェンを恐れたように、ベートーヴェンも、ハイドンの作品群を目の前にして、それ以上のものが書けるのか、と自問自答していたとも言われている。実際、ハイドンの弦楽四重奏曲の中に、ブラームスのようなロマン的雰囲気さえ見出せることは、大変な驚きであり、いかに、ハイドンの弦楽四重奏曲の革命的な性格が大きいかを示している。

(20210907 Iwabuchi)