ブラームス:ヴァイオリンソナタ第1番~第3番

 

堀米ゆず子がエリーザベト王妃国際音楽コンクールに優勝したのは1980年だった。その時の、シベリウス・コンチェルトの演奏も衝撃だったが、それとともに、彼女がヴァンデンアインデンと組んでリリースした、ブラームスのヴァイオリンソナタLPレコードを聴いたときの胸の高鳴りも非常に大きかった(※)。本当の意味で初めて、私が「ヴァイオリンソナタ」というものを「知った」のはこの時だ。

それからさらに数年後のある日、江藤俊哉の演奏で、ブラームスのソナタを、ドイツ大使館内の、大きめの、しかし、ごくごく普通の会議室で聴いた。とある理由から、自分自身を平静に保ち続けることで精一杯だったためか、その時の演奏が一体どんなものだったか、今となっては全く思い出せない。

しかし、その演奏は、確かに私の中に深く沁み込み、それ以来ずっと、ブラームスのヴァイオリンソナタは、常に心の奥底で共鳴し、憧れであり続けている。加えて、その頃から、自分でヴァイオリンを演奏したいという欲求が、ゆっくりと、おぼろげながら膨れ上がっていった。「小さいころから習っていたならともかく、今更ヴァイオリンを始めるなんて、どだい無理なのじゃないか?」という自問自答とともに・・・。

その後、ピアノやフルートなどをやってみたが、「何かが違う・・・」という疑問が常に渦巻いていた。

それまでは、オーケストラに入って交響曲や協奏曲、あるいは華麗な管弦楽曲の演奏に関わりたいという欲求が中心だったが、それはあくまで一つの階段であって、最終目的は、このブラームスのヴァイオリンソナタを演奏することだ、という思いが次第に強くなり、オーケストラに対する欲求を踏み越えてしまうようになっていったように思う。

正直なところ、今現在、このソナタを聴くときには、「どうしたらこのような音色が出るのだろう」とか「ああ、こんな演奏の仕方もあるのか」、などという視点が常に前面に出てしまう。すなわち、鑑賞者としての視点ではなく、演奏者としての視点であり、私にとっては、この3曲は、聴くためにあるのではなく、自分で演奏するために存在しているといっても過言ではない。

  今、非常にたどたどしくはあるが、これらを奏することのできる歓びを噛みしめている。

 例えば第1番は、早春に顔を出すフキノトウを食する時のような、ほろ苦い味わいがある。第2番は、初夏の微風や木の間隠れにきらめく陽光のような清々しさ、そして第3番は、喪失感、回想、晩秋などといったイメージを想起させる。3つのソナタは、あたかも毎年巡ってくる季節のように、繰り返し繰り返し、心のどこかに触れ続けてくる。

 特に近頃では、「回想」が許されるような年齢になってきたこともあって、バッハ、ベートーベン、モーツァルトなどに脱線するときもあるが、青春時代の思い出を伴ったブラームスにすぐ戻ってしまう。

 (20200810 Iwabuchi)

 (※)「当時の堀米がしばしば、自らの演奏をテープ録音してチェックするという努力を重ねていた」ことなどを、師である江藤俊哉がテレビで語るのを見たことがある。