ブルックナーの交響曲たち

 

クラシック音楽を聴く人たちにあって、ブルックナーほどに、はっきりと好みが分かれる作曲家は居ないのではないか。

ブルックナーの交響曲を聴いて、心が大きく慄え、揺さぶられる体験をするか、それとも、虚仮威(こけおどし)に過ぎないと感じるのか、その分かれ目はどこにあるのだろうか。

一般的な解説を読むと、ブルックナーは、交響曲及び宗教曲の分野での大家であり、敬虔なカトリック信者であった、という認識がみられる。また、その一方で、ロリコン趣味の奇人変人だったとも言われている。ある意味で、非常に世俗的で純朴な「夢見るロマンチスト」に過ぎなかったのであろう。

ブルックナーは、ブラームス一派との対立軸の中心に祭り上げられたことで有名であるが、ブルックナーの第3交響曲とブラームスの第2交響曲がほぼ同時期に演奏されたところ、先発のブルックナーの演奏会では次々に聴衆が退出していった(残留したわずかな聴衆の中に、ブルックナーの革新性を理解したマーラーが居た。)のに対し、2週間後のブラームスの演奏会は非常に盛況だったと言われている。ブラームスの音楽は、活力あふれる音楽的フォルムを持っていたためか、当時の成長著しい新興勢力の市民たちから支持を受けていた。革新的ではあったが、晦渋なフォルムのブルックナーの曲は受け入れ難かったのであろう。

その交響曲は、オルガンの響きに根差しており、旋律というより和声の動きによって時間的に進行していくような流れ、といった感じがする。旋律の自然な流れというより、何物かを力任せに引き摺ってゆくような感覚・・・。その後に轍として残るものが、彼の交響曲にとっての旋律であるようにさえ思える。

十字架の形をした荘厳なカテドラルの中に居て、目も眩むような、巨人的な力に包まれる気がする瞬間があったと思えば、でっぷり太った農民たちが、泥臭い音楽に乗せて踊っている光景が目に浮かんだりする。有人の人工衛星が飛び交う現代では、現実の宇宙空間を想起させることも多い。

よく、ロマン派音楽の中にあって、ブルックナーは、文学的なものと音楽の結合を理解しなかった、と言われるが、私から見ると、具体的なドラマではないけれども、聖俗相和した世界を劇的なものとして捉えていたように見え、これはこれで文学的な要素が大いにあると思えるが、非常に抽象化されたものではないだろうか。少なくとも、後期のシベリウスと同様に、ブルックナーの交響曲の中に生身の人間の存在を感じるのは、非常に困難である。そこにあるのは、大自然の中にポツンと置かれた小さな「シミ」のような存在でしかない。ブルックナーに馴染めない人々が多いのは、聴衆が自己を投影することが困難であることに、一つ目の原因があると私は考えている。マーラーは自己顕示欲丸出しの曲を書いたが、だからこそ、聴衆はその中に「自己」を発見しやすい。

最近になって、ベートーヴェンの弟子であったシンドラーが、師のイメージを故意に書き換えていたことが明らかになり、物議を醸しているらしいが、かつてナチスもベートーヴェンの音楽を扇動に利用した。それに加えてワーグナーやブルックナーの音楽もナチス運動に利用されたと言われている。ブルックナーの音楽が、そのような都合の良い利用として選ばれた理由は、ドイツ民族の伝統を受け継いでいたという点だけなのだろうか。

もうひつ指摘しておかねばならないのは、演奏する側と聴衆が求めているものが、もしかしたら、現在でもなお、ブルックナーの交響曲を歪めていないか、という点、さらに言えば、かつてブルックナー自身も大衆に迎合してはいなかったか、という点である。

度重なる改訂は、彼自身が小心者であったから、とか、世間的な評価を高めることに執着したからだとか、様々に言われているが、そもそも彼の作曲技法は、シューベルトの変奏技法に似ていて、いわばヴァリアントが生まれやすい性格を有していただけであって、その点をもって「迎合」と断じるつもりは毛頭ない。

もちろん、天敵を演じていたブラームスといえども、聴衆に受ける音楽を念頭に置いていたであろうし、多かれ少なかれ、創造者という芸術家は「受け」を意識しているはずだ。しかし、ブルックナーの場合、作曲者自身、および、再現芸術家である演奏者、さらには聴衆も、譲ってはならない線を越えて「受け」に流されてきてはいないか、と感じることがある。

冒頭に示した疑問、すなわち、ブルックナーの音楽に対する好みが、はっきりと分かれる2つ目の原因は、作曲家が求めたものと聴衆が求めたものとが近接しすぎた中で形成されたからだ、とも思うのである。

ブルックナーが生きた19世紀は、市民社会が成熟し、産業革命が起きる中で国民国家が形成されていく。また、イギリスをはじめとした帝国主義の時代でもある。一方で、ウィーンは、寛容な民族政策と文化振興が進められたが、ドイツなどが経済成長を遂げる中で、堅固な帝国の地位から滑り落ち、世紀末的没落の過程にあったと言える。結果として、ビーダーマイヤーと呼ばれる、楽天的日常の謳歌は、確かに多様な文化を生んだかもしれないが、自由というものが「意外につまらない」代物だ、という認識を広めてしまったのではないだろうか。21世紀の現代も、同様の危険を孕んでいる気がしてならない。

ブルックナーの交響曲は難解である。しかし、目を背けるわけにはいかない。

 

(20230117 IWABUCHI)