マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調

  

作曲は1902年であるから、20世紀最初の交響曲である。この時代、ヨーロッパは、軍拡競争が激化し、1次大戦前夜ともいうべき時代に位置している。

 

  私は、この曲を聴くたび「ブリキの太鼓」というギュンター・グラスの著作、あるいは、それに基く映画作品を思い出す。この作品は、かなりグロテスクな表現を伴っており、視聴を推薦するのがためらわれるほどであるが、極めて興味深い作品である。

  ブリキの太鼓という作品において、主人公のオスカルは、大人たちの狂態に耐え切れず、3歳になって以降の身体的成長を自ら停止する。時代は、ナチスドイツの台頭と第2次世界大戦へと向かう頃であり、作品は、そのような時代を「子供」として生き抜く彼を描いているものであり、ドイツが敗戦し、彼が成長を再開する決心をするまでを主に描いている。

 主人公のオスカルは、ブリキの太鼓をたたきながら奇声を発し、その超音波振動によって、周囲のあらゆるものを破壊する能力を持っているが、私にとって最も印象深いシーンは、とっくに青年であるはずの小さな彼が、ブリキの太鼓を叩きながら、銃弾が飛び交う戦場で、兵士などの死体を跨ぎつつ行進していくシーンであり、この交響曲第5番を聞くと真っ先に脳裏に浮かぶイメージなのである。

 

  マーラーの交響曲第2番から第4番は、角笛交響曲と呼ばれ、ブレンターノなどがまとめた民謡集「少年の魔法の角笛」に基づく歌曲集と密接な関係を持っていると言われる。

 一方、その歌曲集の中には、「起床合図」と「少年鼓手」という曲が含まれているが、いずれも戦争の悲惨さを思わせる内容及び音楽となっており、交響曲第5番には、「少年鼓手」と似たモチーフが含まれている。

  つまり、マーラーの交響曲は、青春の息吹を如実に表現した第1番と、それに続く3つの角笛交響曲と続き、この第5番で  は、角笛交響曲のイメージを引き継ぎつつも、それからの脱却を目指していると言えるのではないかと思う。

 

 3つの角笛交響曲と第5番以降の作品を聴き比べてみると、そのバックボーンや意図は劇的に異なっていると感じる。

  角笛交響曲では、その背景に、不気味ではあるけれども素朴な自然があり、また、夢見るような非現実感があるうえ、曲想の流れにも、ある種の瞑想的な感じが見受けられるように思われる。第2交響曲に先立って、ビューローの葬儀に出席した彼は、「創作する者はかくのごとき『稲妻』を待つこと。まさしく『聖なる受胎』を待つことなのです。」と述べたと言われているが、そこから類推できるように、この頃の作曲動機が、天上から降りてくるものというイメージだったことからすると、当時の社会情勢や、その中で現実に暮らしている生身の人間などとはあまり関係のないところで思考されていたことを示すのではないだろうか。第2番が、ある種の英雄を描いたものだとしても、その英雄は、所詮、天上界を志向する英雄であろう。第4楽章の「むしろ私は天国にいたい」という歌詞がそれを裏付けている。第3番や第4交響曲に至っては、生身の人間的な要素を排除した性格が明らかに強まっている。

 

  しかし、第5番では、大きく方向性が異なっている。

  まず、曲想が非常に攻撃的になっている。それ以前の作品においても、劇的な要素は多々含まれているが、第5番では、天上から降りてくる稲妻などではなく、具体的な何者かに向けたエネルギーを表現しているのである。おそらく、その何者かというのは、彼自身が具体的に意識していたかどうかは別として、軍拡競争に向かい、戦争を準備する当時のヨーロッパ社会であり、それに迎合したり、翻弄されたりしている人間たちを背景とした当時の情勢そのものであろう。

 

なぜ、このような転換が生じたのかは、非常に興味あるところであるが、恐らく、ウィーンフィルや音楽会との確執が続いたこと、及び、後に妻となったアルマとの出会いによって交友関係が劇的に拡大したことなどが関係していると思う。それは、天上へと向いていた作曲者の視線が、現実の社会や人間へと注がれるようになったことを示すのではないだろうか。

 先述した「ブリキの太鼓」に対比するとすれば、角笛交響曲は、成長を自ら停止した主人公であり、交響曲第5番は、成長を再開した主人公に相当する。

 

しかし、この攻撃的な曲想は、決して絶望に向かってはおらず、むしろ、現実と戦う闘争を意味している。

 あるサイトで、歌曲「起床合図(死んだ鼓手)」は、「僕は死ぬまで行進せねばならぬ!」という一節があり、課せられた使命の到達点が「死」や「敗北」だとわかっていても、どうしてもそれに逆らうことができず、「行進」を止めることができない、そんな「滑稽な悲劇」を歌う哀しい唄であり、それが第6交響曲の原点だ、と指摘されているが、私は滑稽な悲劇であるという捉え方には同意できない。

  むしろ、この第5交響曲は、そういう行進が「生」であり、使命であると捉えなおしている、と理解している。つまり、第5交響曲は、絶望どころか、常に革新を求め、現実と戦う姿勢、もしくは、それに向かう内的エネルギーを示していると考えられるのである。まして、この曲に続く第6~第9交響曲、加えて「大地の歌」も、形は変わっても、絶望に根差したものだとは思えない。

 

現代は、ネットワークにより無数の情報や自我のコピーが氾濫し、人格的な疎外感が増しているだけでなく、自己そのものがかき消されつつある時代だと思われるが、そうしたものに対するうねるような屈折、葛藤、不安感を背景に、なおかつその中で生き抜く意思が、この曲にも見いだせるのではないだろうか。

 マーラーの交響曲に通じて見られる特徴は、行進曲であると私は理解しているが、この第5交響曲においては、その意味するところの転換が図られていると思われる。

  さらに言えば、マーラーの第5交響曲の最終楽章に見られる、ベートーヴェンの第5交響曲と同様の突き抜けるような解放感は、チャイコフスキーの第4交響曲の絶望的な最終楽章とは本質的に異なるものである。

 

(20190821 IWABUCHI)