モーツァルト:交響曲第40番ト短調 K550

 いわゆる3大交響曲のひとつで、フランス革命勃発の前年に作曲された。
 その2年前には、貴族社会への風刺が含まれたオペラ「フィガロ」が作曲され、続いて「ドンジョバンニ」の完成を見ている。
 彼は、宮廷作曲家として出発したが、貴族が富を握っていた時代にあって、既に有力な市民が台頭し始めていた当時の社会状況とは無関係ではなかった。 当時、宮廷ではなく、多くの聴衆を集めて演奏・上演される劇場型スタイルへと移っていること自体、芸術分野においてさえ、 市民という存在を抜きにして成立することはできなかったことを示している。時の権力者である皇帝でさえ、 興隆し始めた富裕な市民たちのご機嫌をとっておく必要があったし、その典型的な材料が歌劇であったとも言えよう。
 ヨーゼフ・ハイドンも最終的には市民社会を意識した作曲を行うようになりつつあったが、モーツァルトも、 そういうスタイルに惹かれていたのではないかと思っている。
 モーツァルトは宮廷音楽家として出発したが、交響曲においても、ザルツブルグ時代にK183、K201など、晩年の3大交響曲をも予感させる傑作を書いていて、 ひときわ異彩を放っている。もし、真に自由な作曲が彼に許されていたなら、一体、どのような発展が生まれたのか想像もつかない。 言い換えれば、彼は余計な仕事に身をすり減らし過ぎていた。
 この40番を聴いて、いつも感じることだが、時に、まるで子供じみた、恥ずかしさに耳を覆いたくなるほどの、 最初から最後まで、余りにあけすけな感情に満ちていて、冷静さの欠片も感じられない。36番、38番、39番と続く交響曲には、 重々しい前奏が冒頭に置かれ、ハイドンの影響がはっきり見られていたが、40番と41番の交響曲では前奏は置かれていない。 形式感を逸脱せざるを得ないほどの何かが込められている。それはおそらく、常に「もっと先へ、もっと先へ」と駆り立てられているような、 「表現すること」そのものへの渇望であったのではないか。同時に、昨今の卑近な言葉でいえば「干されてしまっていた」当時の彼にとって、 外へ向かって表現することは、名声を取り戻すとか言ったことを遥かに超えた、いわば「祈り」だったように思える。

(20180108 IWABUCHI)