≪ 古典派 ベルリオーズ ≫

 一般的に、音楽には「推進力」が必要である。なぜなら、音楽は「時間」とともに存在するものだからである。 しかしそれは、決してリズミカルであることだけを意味するものではない。

 ハイドン、モーツアルトを経て、ベートーヴェンにたどり着いた古典派の音楽は、ソナタ形式という構成そのものの推進力を最大限に活かしていた。 と、同時に、ベートーヴェンによって、類まれな精神性を表現することに到達し、楽曲に大きな推進力を更に付与している。

 ベルリオーズは、ベートーヴェンと重なる時代をともに生きており、また、ベートーヴェンの交響曲を高く評価し、そのフォルムを引き継いでいる。 しかし同時に、それを大きく破壊しようとしている。これを革新的と見るべきかどうかは異論があろうが、 ともかく、古典派形式それ自体が有していた推進力を、ある程度捨ててしまったと言える。 古典派的な要素がまだ色濃く残っている、初期の作品である幻想交響曲以外の楽曲が一般受けしないのは、まずもってそこに原因がある。 幻想交響曲をピアノ独奏版で聞いてみると、その大規模な管弦楽の響きのヴェールがはがれて大変興味深い。 この曲の古典派的な性格がとてもよくわかるうえに、ベートーヴェンとの連続性を強く感じることができるのである。

 形式そのものが持つ推進力に頼らないとすれば、何を原動力にするのか―――。 ベルリオーズの場合は、新たな音色・リズム、ストーリー性などであったが、どのような衣を纏っても、その多くが十分な推進力とはならなかった。 フランスの民衆が、幾段階もの破壊と再構築、すなわち革命と反動を経て、やっと真の自由を得ることができたように、 音楽においても、単に旧体制を打破することだけでは、主体的な自由を獲得することはできなかったのである

 ベルリオーズの少し後にドイツを中心に勃興した、我々になじみの深い、いわゆる「ロマン派」は、ベートーヴェンの別の側面を発展させ、 それを推進力に据えた。それは、精神性である。ロマン派の音楽には、人間の揺れ動く感情や、心を動かす空気、 もしくは詩情、情緒といったものが追求されていて、それが聞く者の心と共鳴する。形式にとらわれずとも、それらを楽曲の推進力とすることができたのである。 ベルリオーズは、似たようなフォルムを纏っていたが、真にそれを追求したとは言えない。ベルリオーズは、そのような意味で、ロマン派とは言えない。

 これに対して、ベルリオーズの管弦楽書法は、非常に革新的である。まず、規模が非常に大きくなっている。 この要因は明らかではないが、激動する社会やフランス革命と何らかの関係があるだろうことは想像に難くない。 後の音楽家たちに与えた影響は計り知れないものがある。もちろん、ロマン派の音楽家たちに対しても。 そして、演劇との融合という要素は、オペラを越えたワーグナーによる総合芸術へと続いている。

(20140116 IWABUCHI)