2010/ 1/ 3 CPU ~ チャイコフスキー交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴 」

 

 先日、太宰の「斜陽」の舞台となった屋敷が消失したという。20世紀の遺物は消滅し た。21世紀はまだ何も創造してはいないのだ。

 CPUは、己を攻撃してくるウィルスに対して十分な防備を備え、日々進化を遂げている。 カンブリア紀に生じた進化の実験は、恐ろしいほどの浪費を―――この曲の第3楽章のよ うな恐ろしい浪費をし尽くした。それはDNAの気まぐれだったのだろうか。それとも、狂 気だったのだろうか。

 今、CPUは恐ろしいほどの浪費をし尽くしている。我々は、その浪費を共にし、その先の 未来に対して、ある不安を持っている。生き残るのは一握りの数に過ぎないだろう、と。

 今世紀においては、生真面目で深刻な努力は実に馬鹿馬鹿しいと見なされている。それ よりも、仮想的な世界に浸り、自己を捨て去ることのほうがよっぽど理知的で合理的な解 決方法である。

 現実とは何か。不況のために路頭に迷う者が居たとして、それが自分にとってどのよう な影響があるのだろう。あるとすれば、明日はわが身かもしれない、という恐怖だけだ。

 我々はCPUに飼われているようなものである。一歩でも、その飼育ケースから外へ足を 踏み出そうでもしようものなら、あっという間に途方に暮れ、線路に飛び込まねばならな くなる。CPUはやがてDNAそのものに侵入するだろう。既にこれは実験の域を超え、生産 の領域に足を踏み入れている。

 人類は、誕生以来様々な細菌やウィルスに遭遇し、そのたびにDNAを変異させ、耐性を 備えていったとされる。しかし、このCPUという特異な「生命体」に対して、どのような 耐性を有することができるのか。あるいは、それを制御することができるのか 。できると すれば、CPUを制御することのできる新たなCPUを開発し、その傘下に庇護を求めることぐ らいなのではないだろうか。まさにそれこそが、彼らの戦略である。


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