2007/ 1/ 1 変奏芸術~ マーラー交響曲第7番ホ短調

 

 芸術というものはもともと、ある種、余暇の発生とともに生まれ、誤解を怖れずに言う ならば、趣味の延長であった、という気がする。ラスコーなどの有名な洞窟壁画、遊牧民 たちが歌う民謡の数々、若者たちの歌垣、様々な工芸品・手工品―――。

 どんなものでも最初はそうであった ろうが、芸術も同様に、最初は、作者は特定の専門 家ではなかった。狩人たち、牧童たち、耕す者たち自身がつくり上げていた。

 次第にそれらは、あるいは上流階級を喜ばせるために精巧を極め、あるいは恋人の心を 慄えさせるために技巧を凝らし、美しく、更に美しくと、作者を駆り立て、遂には専門の 芸術家が創造するようになっていった。

 専門化が進むと、芸術は単なる趣味の域を抜け出して職業となり、「売る」ための「技 (わざ)」へ、さらには生命を賭けてまでも追求すべき技となってゆく。

 その一方で、単なる職業ではなく、人間の世界観 、思想を表現するものとして、それを 主張する預言者としての役割を果たす芸術家が発生するようになってくる。なぜなら、技 術・制度などの発達によって、論理的思考が要求されるにしたがい、本能的な欲求が押し 潰され、それらの摩擦から、新たな生命の地平を開かねばならないという、人間的な叫び が生じてくるためだ。

 それは、特権的階級制度の崩壊、それとともに生じた市民社会の勃興と結びつき、表舞台 に姿を現しはじめる。それだけでなく、聖書に代わって民衆の「生きる糧」となってゆく、 もしくは、燃えるような生命そのものの「薪(たきぎ)」となっていった、と言い換えて もいい。

 芸術は、再び民衆のものとして生まれ変わるのである。今日我々が無意識に思い描く芸 術の姿とは、この段階のものだ。

 現代では、ある特定の価値観に人々が集まってくるようなことはない。あるいは、それ に価するような強力な価値観など存在しない。

 それ故に、ちょっとずつ毛色の異なったさまざまな価値観が溢れ、人々はそれらを次々 と物色し、選び取ってはまた棄ててゆく。それこそが「自由」が持っている価値そのもの であるかのように・・・。職業芸術家たちは、そのために、様々な製品を創作してゆく だ けである。もはや生命を賭けて追求することなどなく、ただ他と異なっている――― それ だけを工夫するだけのものとなっている。

 一方では、全てが幻滅的な色彩を帯び、それを排除するために、あるいは塗り潰すため に、人々は躍起となって絵具をぶちまけている。芸術もそれに寄与している。なぜ全てが 幻滅的な色彩を帯びているのかという、くそ面白くもない問いかけは脇に押しやったまま。

 それらは、趣味の延長としての存在に回帰―――いや、それを通り越して「単なる」趣 味の延長に「なり下がっている」。

 「生命の薪だの何だのって、 そんなものが意味あるのかい? 経済を維持していきさえす れば、生命を維持するための様々なものは自動的に得られる。 ”人はパンのみにて生き るに非ず”だって? だから僕たちはパンじゃないものを日々提供しているのだ。どう だい、これなんか洒落てるだろう? それにdigital化すればもっと美しくバリエーショ ンも広がる。可能性を広げること、限りなく変奏することは素晴らしい。」

 彼らにとって、芸術と人間自身との関わりなど、本当はどうでもいいのかもしれない。 私自身、それを忘れてしまうときがある。利用できるものであれ ば何でもよいのだ、と。

 もしかしたらこれは、来るべき何ものかへ向かう試行錯誤の過程なのかもしれないが、 それに向けた焦燥や憧憬まで忘れられているのではないだろうか、と危惧されてならない。

 この曲に流れている、ある種の末期的症状のようなものは、明らかに現代に通じるもの がある。だからこそ、ある種「前衛的」と呼ばれることがあるのだろう。彼の交響曲の中 でも、最も聴かれる機会は少ないが、爛熟した時代の雰囲気を最もよく伝えている気がす る。そして、現代という行き止まりの時代をも。


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