1999/12/28 愛という毒~ ワーグナー「トリスタンとイゾルデ 」

 

 たった独りきりで愛を飲み干 そうとしてしまう時、愛は毒に変わる。

 誰かを愛し、そして、相手の気持ちを確かめずに、もしくは相手にそれを告げもせずに、 たった独りで愛を飲み干そうとしてしまうとき、その愛は毒に変ってしまう。相手の言葉 の一滴(ひとしずく)一滴、その仕草の一滴一滴、その香りの一滴一滴を、ひたすらに杯 に集め、そしてそれをたった独りだけで飲み干そうとするとき、その杯は毒に満たされる。 しかも、そのようにして集められた滴ほど、美しく、甘く、そして限りなく苦くありなが ら、同時に、まるで黄金のように輝く。だが、それは毒の輝きでしかない。

 そんなことは、詩だの絵だの音楽だのといったものに昇華できる、いや、昇華すること を宿命付けられた者達に任せてしまえばいい。そうでないなら、たった独りで飲み干そう などとせず、本当に諦めきれるまで、想う相手の傍で生き、ひたすら見つめ続けるべきだ。  もちろん、だからと言ってストーカーになれと言っているわけではない。それは、もは や愛とは呼べない。私が言いたいのは、何もせず、自ら身を引いてしまい、しかもそのこ とに「自己陶酔」することは一種の欺瞞だということだ。

 トリスタンとイゾルデは、いわゆる媚薬によって 愛し合うようになったわけではない。 傷ついたトリスタンがイゾルデの腕の中で介抱されたとき、そしてイゾルデが、自分の婚 約者の敵(かたき)と知ってなお、剣を振り下ろす手を止めた時、彼らの運命は決まって いた。しかし、トリスタンは奸計にはまり、イゾルデに対する愛をねじ伏せ、主人たるマ ルケ王の花嫁としてイゾルデを迎えにゆく羽目に陥る。しかも、トリスタンは、イゾルデ をマルケ王の元へ届ける船の中で、自分の愛を毒の一滴一滴として、これを死の杯に盛っ ていかなければならなかったのではないだろうか…。媚薬が二人を悲劇に陥れたわけで は ない、と私は考える。いや、あの媚薬は彼ら自身が杯に盛り、飲み干してしまわなければ ならなかった「愛という毒」なのだ。

 この曲には、むせ返るような甘美さが、登場人物の心理描写のように流れている。その 中に、毒の滴の色を聴くのは私だけではあるまい。

 

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