2005/11/23 支配者の孤独~ バッハ「マタイ受難曲 」

 

 人類全体をひとりの人間としてみたとき、彼の孤独は実に深い。

 人類は、自然を支配し、地球上のあらゆる生命体の頂点に立ち、地上を、彼自身の創造 物で埋め尽くし、その中で暮らしている。我々は、自らが創造した、実に「わかりきった」、 何らの神秘性のない世界に取り巻かれている。友情も、愛もなく。語りか けても、自らプ ログラムした答えが返ってくるばかりで、何も語りかけてはくれないのと同じこと・・・。 果てしのない自問自答が続くばかりなのだ。

 それは神の孤独と同じである。

 かつて神は、自らに似せて人類を作り、地上に送り出した。それは神が、絶対的支配者 としての孤独に耐えられなかったからに他ならない。自らの「わかりきった」創造物に取 り巻かれた、支配者としての孤独――― それを断ち切るために残された道とは、神の支配 を脱し得る存在を生み出すこと。すなわち、己を超える存在を生み出す、という危険極ま りない、しかも同時 に、実に魅惑的な試みだったのである。

 ニーチェは「ツァラツストラはかく語りき」の中で、神が死んだ(滅んだ)ことを告げ た。しかし、アダムとイブを生み出したとき、既に神は、孤独よりも「死」を選んでいた と言えるのかもしれない。それを決定的にしたことこそ、イエスの誕生なのだ。その死と 復活によって、神と人類は肩を並べる存在と認められ、同時に、神と人類が「父と子」と なり、それによって両者の決別の運命が予定された、と言えるのではないだろうか。

 人類は今、支配者となり、この世界を支配していながら、己の創造物を撒き散 らし、そ れに取り巻かれながら、自室でソファにゆったりと身を沈めている。そして、同時に、そ れら創造物との対話に嫌気が差し、刺激的な関係を与えてくれる存在を渇望し、孤独に喘 いでいる。

 人類は、既に死した神と同様に、己を超える可能性を秘めた存在を、自らの手で生み出 すことになるのだろうか。己の死、滅亡をも覚悟の上で・・・。

 マタイ受難曲は、イエスの受難の物語を切々とうたっている。

 私は、この曲を聞くと、何らの喜びをももたらさぬ支配者としての無意味な地位を棄て、 死を覚悟の上でイエスを遣わした神自身の孤独と、 父が子をひとり立ちさせるための、苦 渋に満ちた、同時に心安らぐ「決別のとき」を感じる。


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