1999/12/22 放浪 ~ブラーム ス「アルト・ラプソディ」

 放浪という言葉を、僕はこれまで何度呟いてきたことだろう・・・。
放浪ということ―――現実的な放浪は言うまでもないが、現実的にはありきたり の市井の生活を送りながら、心の中では様々な放浪を経験するということは誰にも あるはずだ。自由への憧れ、美しさ、そしてゆらめき、そういったものが私達を放 浪へと引き寄せる。
 先日「海の上のピアニスト」という映画を見た。船の中で生を享け、そこで成長 し、最後まで陸に上がることのなくピアノを弾き続けた男の話しだった。(ある意 味では「フライング・ ダッチマン(さまよえるオランダ人)」に似ている。
 そのピアニストは、貧しい移民者から富貴な旅行者まで、様々な階層の者達を乗 せた船の中で、全て即興的にピアノを弾く。即興演奏というものは、奏でられた旋 律を保存しない。すなわち、かりそめの音楽だ。そして、それを聴く乗客達もまた、 数週間で船を降りてしまう、かりそめの人々である。その中で彼は、通りすぎる人々 をモチーフに旋律を奏でる。一度は陸へ上がるべくタラップを降りかけるものの、 彼はそれを降りはせず、船へと戻ってしまう。「限られた鍵盤から無限の旋律を奏 でることは できても、無限の鍵盤を使って弾く事などできない」と。
 彼を放浪者と呼ぶべきかどうかはわからない。しかし、タラップの途中で彼の足 を止めさせたものは「永続」というものに対する限りない恐怖だったのではないだ ろうか。どだい固定できるはずのない人間の感情、あるいは人生というものを、無 理やりねじ伏せて固定しようとする・・・。彼はタラップの半ばで、そのような欲 望の塊である都会の圧力に屈してしまったのだ。私達は常に「選択」というものを 強いられながら歩いているが、かりそめの中にのみ生きてきた彼には、選択という 言葉は存在 しなかったに違いない。そして、放浪の中にも、選択は存在しない。
 放浪者というテーマで書かれた小説に、ヘルマン・ヘッセの「クヌルプ」がある。 その中で、ロートフースという親方(マイスター)は、クヌルプのことを「人生か ら眺めることしか望まない」と言っている。ところが、生活というものは、全く正 反対のことを要求する。安定の維持のためには、眺めるだけでなく、求めるもの、 必要なものを獲得してゆかねばならない。そして、それと引き換えに、何かを棄て なければならない。その、棄てなければならないものこそ「自由」なのだ。
 放浪を選び、自由を獲得し、不安定な生活の中で、クヌルプは「感じる」ことに 終始する。「生活」を選んだ人々の中を歩き回りながら、クヌルプは、自由という ものの中にしかない、感情、美しさ、…そういった宝石のようなものを撒き散らし てゆく。
 私達のように「生活」を選択した者達は、放浪者から撒き散らされた、そういっ た香しい宝石を時折り受け取り、行過ぎた保存への欲望を冷ますのだ。
 クヌルプは、現実的な放浪者として描かれているが、クヌルプの姿は心の奥底で 体験する、無形の放浪の姿ではないだろうか。
 この曲におけ る歌詞の元となっているのは、ゲーテの「冬のハルツ山への旅」と いう詩である。実際にゲーテは、ブレッシングという青年を伴って冬の山に登って その詩を書いたという。ブラームスは、その詩からいく節かをまとまったものとし て取出し、曲を書いている。そして、ブラームスがこの曲を作るきっかけになった のは、クララ・シューマンの娘に対する失恋だったという(もっとも、個人的には、 クララに対する度重なる失恋ではなかったかと思うのだが・・・)。
 そのような詩、および曲の成立経過はともかく、この曲の冒頭の極めて沈うつな 重低音が鳴り 響く中からアルトの独唱が開始される時に私が想うのは、放浪――― しかも、現実的な放浪ではなく、人間の自由への渇望、癒されぬ生の渇き、といっ たものから涌き出る放浪である。私達は、生活という日常を安定的なものとしたい という要求とともに、それと逆方向の要求を常に持っているのではなかろうか。そ の相克に、人は常に悩む。

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