1999/12/10 哀しい幸福~フォーレ

 幸福は限りない哀しみだ、と思うときがある。  最初にフォーレと出会ったのは、高校生の頃だった。初めて耳にした曲は、「レクイエ ム」と「パヴァーヌ」だった。「レクイエム」と言えば、モーツアルトの名曲があるが、 モーツアルトのそれが極めて悲痛な恐怖に満ちているのに対して、フォーレのそれは、ま るでごく普通の賛美歌に聞こえる。より天国的だと言ってもいい。最初これを聴いた時、 私には正直言って「堪え難いほど高慢な」音楽に聞こえ、私が死の床につく際には、そん な、在りもしない天国の存在を吹きこむような音楽なんてごめんだ、と思ったものだ。
 しかし、それから様々な風に吹かれてゆくうちに、「陽光(ひかり)」という言葉に惹 かれるようになり、幸福は限りない哀しみだ、という言葉がふいと口をついた。すると、 フォーレのレクイエムから、全く異なった響きが聞こえるようになってきた。陽光という ものが、掌に掬えるものであることを知っているだろうか。ためしに、すこし薄曇りの日 に、雲間からのぞいた陽光を、掌を「おわん」のような形にして受け取ってみるとよい。 掌だけでなく、不思議と、体中が温かくなるだろう。しかも、その温かさの中には、限り ない「生」の哀しみが溶け込んでいるのがわかるだろうか。私は、これがフォーレではな いだろうかと思っている。
 師走の12月がやって来ると、文字通り、仕事やプライベートで、寒さに襟を立てながら、 いろいろと忙しなく歩き回る。ところが、そんな中、街を歩いている際、ベビーカーをゆ ったり押して歩く母親を見かけると、そのような忙しさに満ちた時間が、ふっと消えてし まう事がある。ベビーカーの中の赤ちゃんは、それを押す母親から、ふうわりと包まれて いることを感じながら、自分の目の前に現れる様々なものに気を取られている。このよう な 相互の絶対的信頼感というものに出会うと、幸福感に満たされて微笑してしまうのだが、 同時になぜ哀しい気持ちになるのか、自分でもよくわからない。こんなときにフォーレが 聞こえてくる。
 師走も押し詰まり、クリスマスの騒ぎも収まって、ゆっくりと今年もあと数日かと思う 頃、なぜか北風がぱったり止んで、小春日和になることがある。学生時代の頃、そんな時 に、よく外房線に飛び乗り、適当な駅で降りて、海岸沿いを、1駅分、あるいは2駅分、地 図を片手にただただ歩いたものだ。砂浜や岩場伝いに歩き続けるわけではなく、あくまで 人の通れる 道を歩くわけだから、常に海を横に見てというわけではない。しかし、潮の香 りは常にするし、人家の間を歩いていてもかすかに波音が聞こえる。そんな中、家の中か ら子供達が突然飛び出して来たり、大掃除の音が聞こえたりする。すると、不思議と「生 活(くらし)」いうものの温もりに胸を打たれたものだ。そんな時にもフォーレは聞こえ てきた。
 フォーレの「シシリエンヌ(シチリアーノ)」は、フルート曲として、またピアノ曲と してよく演奏される。私も、フルート、ピアノともに愛奏している。ピアノ版の楽譜の解 説で、解説者がフォーレについて、
 『たとえば彼にあっては、「泣きじゃくり」は作品になる前に終って…(後略)』
と書いている。この(後略)の部分に関しては、個人的にかなり異論があるので、各自楽 譜を購入して解説者の意見を読むなり、曲を聴くなりして考えていただきたい。とにもか くにも、「泣きじゃくり」が作品になる前に終っているというところに、フォーレから哀 しい幸福感というものが感じられる秘密があることは同感できる。
 暖かく幸福でありながら、常に哀しさと隣り合わせでいる・・・、あるいは、幸福感が 増せば増すほど哀しさも増してゆくように 感じる・・・。そして哀しみと、さらには幸福 感までもを大気の中に溶かしてしまおう・・・という想いさえ抱かせる・・・。フォーレ は、そんな響きを持ってはいないだろうか。
 なお、フォーレについては春という季節と深い関わりがあると思っているので、また春 になったら書いてみたい。

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2000/ 3/12 放浪 ~フォーレ~春

 春は、人々を実に美しく見せる。
 春の陽射しが、人々を美しく見せる効果を持つことを知っているだろうか。もちろん、 人だけではなく、街そのものが美しく見える。どうして、こうも美しいのか…。
午前中に降っていた冷たい雨が上がり、日差しが、しかも暖かな陽光が、まるで粒子の ように大気に満ちはじめる。そんな中を歩いてゆくと、路傍に萌え出した緑、飾られた花々 に目を奪われる。
、 それだけではなく、街の風景を構成する無数の輪郭線が、Hの鉛筆で引かれた線から、B、 2B 、3B というような柔らかい鉛筆で描かれた線のように変化している。そして、そのデッ サンに塗られた色彩も、色彩そのものが増加するのみならず、同じ色でありながら、油絵 具やアクリル絵具で塗られたような感じから、水彩や色鉛筆で彩色されたかのような感じ に変化している。その色彩の中に、春が溶け込ませたものは、いったい何であろうか…。
 そして、すれ違う人々の姿…。それが、笑顔であろうと、泣き顔であろうと、怒り顔で あろうと、そんなことはどうでもかまわないような気がして、しまいには、誰もが微笑し ているように思えるのだ。表面に現れている表情とは別に、その下に晴れやかな心が潜ん でいるような、そして、それだけが、ふわふわと身体全体から染み出しているような、そ んな感じを受ける。春は、そういうふうにして、人々を美しく見せる。いったいそれは、 なぜであろうか…。
 自分が、そのとき幸福であるか、それとも哀しい気持ちであるかは、それとは無関係だ。 美というものは、あるいは、もともとそういうものなのかもしれない。もしくは、その、 どちらとも同じ関係を結んでいるものなのかもしれない。
 幸福であるとき、そのそばに潜む「喪失の怖れ」。愛する者を抱き締めているときの、 「この幸福はいつか終わるかもしれない」という切なさ。それは、幸福感をいっそう増幅 する。そしてまた、幸福感が増せば増すほど、喪失の怖れは大きくなってゆく。以前に書 いたように、そんな時しばしば、「ああ、いっそのこと両方とも 投げ出してしまえば…」 と思うことがあるものだ。幸福を投げ出してしまえば、同時に哀しみも薄れるだろう、な どと…。春の暖かさには、そのような感触が、春の風景には、そのような色彩がある。
 フォーレの音楽には、このような「幸福」とも「哀しみ」とも、どちらとも言えない、 また同時に、どちらとも言える、響きがあるように思える。幸福と哀しみが、ぼんやりと 混じり合った、溶け合った、そんなような響きがある。
 フォーレの音楽には、その柔和さのゆえに「慰め」という言葉が、よく使われるが、僕 は違った考えを持っている。フォーレ の音楽にあるのは、哀しみも、幸福も、同じ風(か ぜ)として、同時に引き受けようとする心ではないだろうか。あるいは、穏やかで、幸福 に見える日々の暮らしでさえ、実は無数の哀しみが溶け込んでおり、しかも、それゆえに 限りなく幸福なのだ、という事実を語っているように、僕には思える。そして、そのこと を感じさせてくれるのが、春の陽射しなのだ。
 フォーレを聴くと、春を身体中で感じると、もう一度繰り返してみたくなる―――幸福 は限りない哀しみだ、と。

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