2000/ 1/21 樹木~ シベリウス交響曲第4番

 

 樹木に寄り添うと、太古の音が呼び覚まされる。

 木の幹の隣に立つ時、どのような方向を見ようと、何度向きを変えても、まるでその木 が自分と同じ方を見ているような気がする。さわさわという木の葉のざわめきは、ただ僕 ひとりにのみ語られているように思われる。まるで「お前がそこにいるからだ」と…。 (ああ、君の瞑想の邪魔をしてすまなかったよ)

 大きな樹木に寄り添うと、人間が存在しなかっただろう頃の原初的な音の記憶が呼び覚 まされる気がする。同時に、たとえ街中の公園であろうと、賑やかな街の大通りであろう と、辺りの人間の営みが生み出すあらゆる音は消えてしまう。もちろん、 僕自身の立てる 音さえも。心臓の鼓動や、呼吸の音さえも。

 人間の存在しない世界の音―――今や、それを音という言葉で言い表してよいものなの かどうか。

 樹木のひんやりとした木肌に額を当てるとき、微かな振動が伝わってくる。小さなトカ ゲが近くを歩き回る足音、風で枝が揺れる振動、鳥の鳴き声が木に生じさせる共鳴振動、 虫達が微かにたてる足音、そしてもしかしたら木の幹の内部を、泡立ちながら上ってゆく 水の振動…。

 そうだ、音ではないのだ。太古の音とは、単なる様々な振動の集合なのだ。耳で聞くも のではなく、肌で感じるも のなのだ。

 それらの振動を、ひとつひとつ感じ分けてゆき、それが重なり合ってゆくと、音楽にも 優る高揚(クライマックス)の中に引き込まれてゆく。無作為に積み重ねられていったも のであるはずなのに、まるで意図された音楽であるかのようにクレッシェンドしてゆくの だ。なんと不思議なことだろう。

 このシベリウスの曲は、まさに自然のそうした息吹を伝えているように聞こえる。無作 為で、しかも、それぞれの音――いや、振動が有機的に結びついているかのような。


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