2000/ 1/23 生活のテンポ~ シベリウス「哀しいワルツ」

 

 日々同じように繰り返される生活に流れるテンポを、切ないほどはっきりと感じること がある。

 朝、通勤のために、自分の家から駅まで自転車で通る道すがら、僕は様々なものに目を やっている。家々の出窓に置かれた飾り物や観葉植物、引かれたカーテン、庭先に生える 植物、花々、それに、今から出勤、登校しようとしている人々の忙しない仕草―――それ らは、毎日毎日変わりなく見える風景だ。しかし、なぜこうも毎日飽かず僕の目を惹き付 けるのか。

 そうした毎日の生活の中で出会う光景というものに、ふと或テンポを感じる事がある。 そして、 そのテンポは自分の生活の中にも流れているのだな、と感じる。

 そのテンポは、とても緩やかで、乱し難く、着実で、しかも呵責なく僕達をとらえて放 そうとはしない。指揮者はあくまで僕達自身であるはずなのに、まるで楽譜に指示された 通りに演奏し続けなければならないような、それが義務であるかのような、いや、シジフ ォスに課されたような永遠に終る事無き宿命であるかのような気がしてくることさえある。

 そのことにふと気付いた途端に、日々同じように繰り返し僕の目に飛び込んでくる風景 は、非常に違ったものになるのだ。

 そのゆったりとした同じようなテンポであっても、その上に流れる旋律や表情といった ものは非常に様々だ。しかし、テンポを感じ取っていない時には、そうした旋律や表情も 感じ取る事ができないのは、もしかしたら当然の事なのかもしれない。

 どのように毎日が同じような繰り返しであろうと、どのように毎日のリズムが、呵責な く動かし難く思われようと、生活を創り出すのは僕達自身以外の誰でもない。その、生活 のテンポは、僕達自身がタクトを振り、生み出されているものなのだ。

 たとえ、それを忘れてしまう事があっても…。

 この曲は、ゆっ たりとしたワルツのテンポの中に、どこか毎日毎日同じように繰り返さ れている生活のテンポというものが感じられるように思える。そして、その上に流れる2 種類の旋律は、生活を「創り出して」いる人々の感情の流れであるように思える。


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