1999/12/30 祈り~ バッハ「ロ短調ミサ」より Benedictus

 

 誰に対する祈りなのか。

 祈りというものを考えた時、私達は誰に向かってそ れを行うのだろうか。神に向かって か、星に向かってか、それとも絶対的な存在である何か、に向かってか…。いや、「生け る者達」に向かってだ。人間の力は極めて微小であり、自然の脅威、無作為な宇宙の運動、 さらには、人間同士の関係においてさえ、私達は無力といってもいいほどだ。しかし、未 来を作る者として、生ける者達以外の何物があろうか。

 神の御業(みわざ)に全てを委ねて生きると、ある人々は言うかもしれない。しかし、 それとても、生きて現実の世界を動かす、もしくは未来を作るのは、生ける者達ではない か。神そのものの意思が、 自然を動かし、宇宙を動かすにせよ、それを受けとめ、そこか ら引き出したものを未来へとつなげるのは「生ける者達」ではないだろうか。いや、神の 意志を受けとめるという、まさにそのこととて、生ける者達の意思と叡智なくして、どう してできるものか。

 それ故に、私の祈りは常に「生ける者達」に向けられる。

 逝ける人の死を悼む心―――それは逝ける人を惜しむ心、逝ける人との別れを哀しむ心 であると同時に、残された我々が祈る心でもある。ある僧が言っていたが、死にまつわる 様々な儀式に臨む時というものは、生ける我々が死を考える時 であり、それはすなわち己 の生について考える時である、という。

 逝ける人から様々な形で、その人の生前にせよ、その人の死後にせよ、得たものを引き 継ぐ事のできるのは、我々「生きてある者」なのだ。

 このBenedictusの中には、Dominiという言葉が繰り返される。これは、まさしく「主」 という意味で使われている。流れるようなフルートの音色に乗ってテノールが歌い上げる この部分は、このミサ曲の中でも極めて美しく天国的な部分である。その中に込められた 祈りの中に、私は、生ある者達への切々とした訴えを聞き取る。

 私達は、互いに傷つけ合うことも、愛し合う事も、そしてこの星を掃き溜めと化すこと もできる…。皮肉にも、たとえそれが、いわゆる「神の意志」に背こうとも、やってのけ ることができる。

 私は、ある時、自然の中で、次のような声を聞いたように思った。

 「人間とは、あらゆる生物の中で、最も幸福に近づくことのできる『可能性』を持った 生物だ」と…。

 その『可能性』を私達はどこまで生かしていけるのだろうか。

 


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