2006/12/24 絶望~ 武満 徹「海へ 」

 

 現代においては、「絶望」というものが許されていないし、本当の意味で、それを口に する者など居ない。あるいは、かつてそのように呼ばれていたものは、現代では、「不要 なもの」としてごく普通にそこいらに打ち棄てられていて、それを口にすることなど陳腐 極まりないことなのだ、とも言えるだろう。

 毎日のように線路に飛び降りて自殺する中高年者。いじめに耐えかねて命を絶つ中学生。 彼らは、絶望を許されなかった者たちであったに違いない―――。それは「ありえない」 ものとして認識されてしまっていないだろうか。

 人間自身の許容力、包容力―――そういうものが不要とされている、もしくは、その範 囲が狭められている、そのことの裏返しとして、「絶望」は許されていない。あらゆるも のが法律や制度によって「規定」されつつある現代社会においては、そこに規定されてい ないものは排除されてしまわれなければならぬもの、なのだ。

 現代における自殺者たちは、絶望という「無規定」なものに戸惑い、周囲からも無視さ れながら孤立した挙句、この世界を棄てざるを得なかった者たちなのではないだろうか。 いや、自殺者だけではない。生ける我々にも、「絶望」 は許されていない。我々がつくり 上げてきた外部生命体たる社会や制度は、それを許さない。我々は、何のためにそれを創 造してきたのだろう。我々自身が何ら反芻することなく、迷い無く、生き抜くため、であ ろうか・・・。

 この曲は、絶望とは無関係かもしれない。しかし、現代において許されていない、ある 種の感情を表している、と聞こえる。

 アルト・フルートのくぐもった、まるで海原の波やうねりのような響きと、ギターやハ ープなどの慄えるような音の真珠―――、それらが共振することによって生まれる微かな 風・・・。その世界の中に、私 は「絶望」が、石ころのように打ち棄てられ、転がってい るのを見る。その石ころをなめらかに円く削り、やさしく慰めているのは、無言の海だけ なのだ。

 

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