2018/ 5/ 4 言葉というノスタルジー ~ モーツァルト:ヴァイオリンソナタK304ホ短調

 

 読書離れが進んでいるという。その原因を個人的に考えてみる。

 まず、インターネットの普及に伴い、情報伝達速度が画期的に早まったことが要因であろう。 本として出版される時点で、それは既に時代遅れの情報内容になってしまっている。また、 社会的変化の速度が速く、それに追いつくためには、「振り返る」よりも「新たな動向に着目する」 ことのほうが重要であるという考え方がある。また、じっくり分析する時間も与えられない、 もしくは、分析は、それを専門とする集団に「委託」されてしまっている。

 次に、個人の表現手段の多様化が原因であるということも考えられる。インターネットが誕生したときは、 現実に存在する情報源が公開されるに過ぎなかったが、その後は、 インターネットでしかできないツールの発達によって、現実世界にはない情報が次々と生み出されていくようになった。 典型的な例が、動画や写真、コミュニケーションツールであり、それらは個人が容易に、 かつ無限に生み出せるものであって、大衆の興味をそそるものとなっていった。雑誌類も含め、 読書という行為が片隅に追いやられるのは当然の帰結であろう。

 歩きながらスマートフォンの小さな窓を覗き込む人々の姿は、現代を象徴する光景である。

 「本」という媒体の元素である「言葉」という表現手段は、実は「思考」という作業と密接な関係にあった、 と私は考えているが、情報化社会は、思考という作業を困難にするほど発達し、言葉を記号に近い単なる表現手段のひとつと化し、 思考という作業と切り離されてしまったように見える。

 「海景」というものを他人に伝えようとしたとき、「さえぎる物のない地平の彼方に、 きらきらと光の粒を乗せた紺碧の海原が広がり、その上に、海とは違う青さを背景として、 かすむような薄い雲を浮かべた空がある。私は、白い砂浜に腰を下ろし、それを眺めていたのだ。」と、 言葉では表現するかもしれない。そこには、「海景」というものの持つ様々な側面や性格、 印象というものを分析・思考するという行為が必要であって、その分析によって表現された内容も異なってくる。 また、その表現を受け取った側も自ら思考し、理解しようとする、その仕方によっては、受け取った印象も大きく異なってくる。 言い換えれば、言葉というものは第六番目の感覚であり、また五感を統括する者である。

 しかし、現代では、かつて訪れた際の写真を示し、あるいは現在見ている光景を切り取った写真をネットに公開し、 どこどの海岸で見た素晴らしい海景です、という簡単なコメントをつければ事足りてしまう。そこには、 思考というものが入り込む余地が殆どなくなっており、均質化されてしまっているのである。 受け取る側の印象も同様である。もし、そこに個性というものを発揮させようとしたら、その海景を背景として、 数人の人々が空中に飛び上がった光景を切り取る、というような新たな操作が必要になってくるわけである。

 私は、読書人口が減少している事実そのものより、言葉という表現手段が変質し、思考というものと切り離され、 陳腐化していることのほうが気がかりである。あるいは、人工知能が格段に進化し、 人間の脳に匹敵する能力を有するようになった時には、言葉など不要な思考演算回路が誕生しているのかもしれない。

 これは、単なる私のノスタルジーなのだろうか。

 モーツアルトのヴァイオリンソナタはどれもみな、弦楽四重奏や交響曲にも、ピアノのための作品にも見られない、 素のままの「すっぴん」の彼がにじみ出ている作品群だ、と私は思う。このホ短調のソナタにおいても、 「表現」ではない何物かが、自然な形でにじみ出ている。論理的ツールとしての言葉とは異なる何者かが語っている。

 

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