2000/ 1/10 言葉の眼差し1~ ラフマニノフ「ヴォカリーズ 」

 

 言葉の眼差しは、いつも憧れに満ちていた。

 言葉が発せられると音楽が身体を揺らし始めるし、音楽が流れ出すと言葉が歌い出そう ともじもじしだす、とかいった具合だった。

 ただし、僕の場合、両者の立場は全く異なっていた。

 音楽の場合は、すでに完成されたものとして、記憶の底から自然と聞こえてくるのに対 し、言葉の場合は、(実にあやふやでぐらぐらした階段を)感性の底からなんとか這い上 がってくる、という感じだろうか。

 詩なり文章なりを書いて何かを表現しようとしていると、音楽が聞こえ出し、「さあ、 こんな感じではあるまいか?」と囁き出すと、言葉の方は「そうだね、そうだね」と答え ながら、音楽に対してうっとりとした眼差し―――憧れに満ちた眼差しを向けることにな る。強引に言ってしまえば、言葉は音楽の従者だったのだ。

 音楽を言葉で表現するなどということは無理なのかもしれない。しかし、音楽的表現と いうものはあるのか もしれない、と常に性懲りもなく考えている。なにかを書くときには、 どうしてもそのことを考えないではいられない。

 これからも、僕は書いてゆくのだろうが、その中の言葉たちは、常に音楽に対して、憧 れに満ちた眼差しを切なく向ける事になり続けるのだろう。「どだい、言葉なんて無力な のかもしれない」と、時折は思いながらも…。

 この曲のソプラノによる歌には詞がない。

 この曲の中に、毎日を「音楽」の隣に並んで過ごしていながら、極めて切ない憧れに満ち た「言葉」の想いと似たものを感じてしまう。詞のないソプラノの歌声は「何も 私は表現 できない」という「言葉」の呟きそのままのような気がする。


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