2008/ 8/11 言葉の眼差し3~ ウェーベルン「管弦楽のためのパッサカリア」

 

 言葉という表現手段は、同時に感覚器官でもある。さらにはまた思考手段でもある。我々 人間が作り出した、複雑な機能を持った道具。それが今、うち棄てられ、踏みにじられて いる。音楽や映像、さらには「情報」という巨大な塵の洪水に満ちた大気が、我々を溺れ させ、言葉を忘却の川に溶脱させてしまっている。

 それだけでなく、言葉や文字は、企業的な、あるいは個人的なコマーシャリズムの手段 として、いわば、音楽や映像と同列の、単なる複数の意味を有する「記号」となっている。 そして、言葉という道具を喪失してしまった我々は 、「想像力」という、人間固有の優 れた能力をも喪失しつつある。

 それは、産業革命以来、頭脳を便りに進めてきた、科学技術による生産機能の代替、そ して遂には情報処理技術の進歩によって、CPUという外部頭脳への委託による思考機能 の代替によってもたらされた、皮肉にも当然の帰結なのだ。

 しかも、このCPUは、高度な処理を行うのみならず、人間の意志とは関わりなく、次々 と、どうでもいいような撹乱生命体を生み出している。

 それは、コンピューターゲームであったり、釣りでいう「コマセ」のような、コミュニ ケーションツールであったりする。

 もはや、我々の意思とは無関係に、独立した生命体となって暴走を始めている。そのこ とに、我々はまだ本当には気付いていない。既に、これは「現在」であって、サイエンス ファンタジーではないのだ。

 ある時から、僕の中で、言葉は、それらCPUのきらびやかな衣装である、音楽や映像 に背を向けた。それまでは、羨望の、憧れの、あるいは嫉妬の眼差しを投げていた彼は、 溺れかかっている自分に気付いた。それと同時に、洪水のように押し寄せてくるそいつら が、全く「自由」を持ち合わせていない、単なる奴隷となっていることに、彼は気付いた のだ。

 それは、人類自身が溺れかかっていることにも通じている、ということにも・・・。

 この曲には、むせ返るようなロマンがあるように聞こえるけれど、既に自由を喪失し、 その音の向こう側には何もない。


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