2007/ 1/12 部屋~ シューベルト:即興曲 D899-1(op.90- 1) ハ長調

 

 現代人にとっての「部屋」とは何だろう。

 一人一部屋を占有するのは当たり前。それどころか、満員電車の中にあってさえ、ある いは、街を歩いているときでさえ、デジタルプレーヤーの音楽を聞きながら、個室状態に いる。子供から大人まで、一人で夢中になってデジタルゲームに興じる。インターネット は個室と個室を繋ぐための便利な道具になっている。かつては大衆娯楽と呼ばれたテレビ は多チャンネル化して、個人が自由に 番組を選ぶことができる。携帯電話は、持ち歩きに 便利な個室空間であって、テレビを見ることも、音楽を聴くことも、情報検索もできる。 マスメディアは次々と崩壊し、大衆というものは消えつつある。車社会は、一人個室に居 ながらにして遠くへ出かけることを可能にした。

 全ては個人が自由に個室空間を楽しむために作られている。もはや「部屋」とは3次元 的な空間を意味していない。

 それだけではない。

 現代において「部屋」とは独善的になれる空間、となっているのである。上記のような 個室空間はそれを助けている。

 我々は自由な選 択をすることができるはずだが、独善的な選択に走っている。これはも はや選択とは言えない。偏見に基づく選別、とでも呼べばよいだろうか・・・。現代詩は、 よく「自己満足」の集団によって歪められているというようなことを言われる。ある意味 では、個室的な空間に閉じこもっていることを意味しているのであろう。

 こうして考えてみると、戦後、我々は独善的な「気分」になれる自由を勝ち取ったに過 ぎないのであって、決して一人の自由な人間存在を勝ち取ったのではない、と思えてなら ない。

 部屋、とはそもそも何であろう。部屋というもの の持つ意味とは何であろう。

 我々は社会的存在であるとともに、一人の自由な存在である。部屋とは、その自由を一 人噛みしめる空間ではないか―――。

 この曲は、わずかな振幅の中で揺れ動くこころのような、あるいはさざ波のような、か つ、ひっそりとした個人的な雰囲気を持っている。誰に聞かせるでもなく、ただひとり部 屋にいて弾く―――そんな曲である。もし、自らを癒すことのできる涙があるとすれば、 それはこの曲のような温もりを持っているだろう。

 ベートーヴェンの作品のように、ある時はモニュメントとして偶像のように祭り上げら れ、ある時は歴史によって徹底的に歪められたりするようなものではない。そういうもの とは無関係ではないにせよ、決定的に違う空間がある。両者がほぼ同時代のものであるこ とが信じ難いほどだ。

 

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