2024/ 9/10 静謐 ~ ラヴェル:弦楽四重奏曲

 

 静謐という言葉がある。辞書をひくと「静かで穏やかなさま」とある。静寂という言葉もあるが、両者は似て非なるものである。

 静謐、という言葉には空間的な静けさというイメージを感じる。凪の湖面のような、ひんやりとした肌触りも感じる。あるいは、永遠というイメージも若干含まれている気がする。

 静寂という言葉には、「無音」が含意されているのに対して、静謐という言葉は、音の有無と直接関係していないように思える。むしろ、「かすかな揺らぎ」を含んでいるのではないか。

 

 私自身が静謐という言葉と最初に出会ったのは、もしかしたら、以前、屈斜路湖畔の砂浜で、うす青い空が白み始め、鏡のような湖面が、まるで息を吸うように、雲間から差し込み始めたかすかな光を吸い込んでゆき、大気や、空間全体が「何ものかを消し去り、同時に、何物かを始めようとしている」状態へと移行してゆく―――そのような時間を体験したときであったのかもしれない。と同時に、透明な水の中に、あるいは私自身の体の中心部分へと、ゆっくりと錘を沈めてゆくような、そんな感覚を体験したと記憶している。

 

 ある建築家は、「早朝の朧な光が満す静謐さ、あるいは音がふと途絶えた時の静謐さ、夜空を見上げ宇宙の深淵さを感じた時に訪れる静謐さ」という表現を使っている。また、「人は静謐さに満たされた空間の中にいると、深い瞑想状態(I am 私は在る)となることができ、そして精神世界へとつながり自分の内なる空間を発見します。そして、自分の本質に気付くことができます。」とも述べている。つまり、「静謐さ」とは、空気や液体のように、「空間を満たしているもの」ととらえているのである。

 この静謐という捉え方は、東洋的というより、むしろ極めて日本的である。

 

 ところで、音楽とは、旋律やリズム、といった「動き」を伴うものであって、静謐さとは一見無縁なようにも思われるかもしれないが、本当にそうだろうか。

 冒頭で書いた通り、静謐という言葉は、音の有無と直接関係していない、と思える。そうではなくて、ある音空間に身を置き、自らの中に、ひんやりとした空気や水が満たされたように感じるとき、それは静謐さを呼び起こす音楽だと言えるように思える。

 

 では、どのような音楽が、静謐さをもたらすのだろうか。

 

 さすがに、フルオーケストラでジャンジャカ鳴るような音楽は違うだろう。ただし、フルオーケストラでも、部分的にみれば、静謐さを呼び起こす曲想は沢山ある。

・ラヴェルのスペイン狂詩曲冒頭

・ドビュッシーの「雲」、「牧神の午後への前奏曲」

などなど。いずれも、余分な音を排し、むしろ「静寂」を表現しようとしている。

 

 独奏曲や室内楽にも、静謐さを呼び起こすものがある。

 とりわけ独奏曲は多い。

・ドビュッシーのシリンクス

・バッハ以前のバロック独奏曲の数々

 洞窟や教会といった空間を透明な響きで満たすような音楽・・・。

 ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲も、静謐さを呼び起こす曲想が非常に多い。こちらはむしろ「瞑想的」という表現のほうが適切かもしれない。

 そして、このエッセイの表題に置いたラヴェルの弦楽四重奏曲・・・。非常に動きの多い音楽であり、瞑想的とも言えないのに、なぜか、ひんやりした肌触りの故か、聴いていても弾いていても、静謐さに満たされてゆく。

 

 また、静謐という概念そのものであるような音楽として、決して忘れてはならないのは、まるで「ゆらぎ」そのものであるかのような、武満徹の数々の楽曲である。ほとんどすべての楽曲が静謐さを体現していると言えるだろう。もしかしたら、「それらは“音楽”ではない」という考え方もあり得るのかもしれない。それが音楽であろうとなかろうと、私にはどうでもよいことだ。ただただ聞き入ってしまう・・・そういう音空間でよい。

 

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